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後醍醐の建武の新政

1333年(元弘3年)に始まる後醍醐の建武の新政は数年で失敗に至り、当時最大の実力者だった足利尊氏が幕府政権を樹立することとなった。その際、尊氏は、持明院統の光厳上皇を治天とし、その弟の光明天皇を即位させ、自らは征夷大将軍に就任する。後醍醐は治天の地位を否定したけれども、社会はそれを必要としていたことを表している。後に美濃守護土岐頼遠が光厳上皇に矢を射掛ける事件を起こした際に、尊氏から事件の処理を任された弟の足利直義は幕府内外から起こる頼遠助命の声を無視してその斬首を強行した。直義は光厳上皇の治天としての権威のみが、室町幕府の政治的な正統性を保障していることを理解していたのである。
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1352年(正平7年/観応3年)、北朝・幕府と対立していた南朝は、観応の擾乱に乗じ、北朝側の治天・天皇・皇太子を拉致することに成功した。建前であっても、政治決定には治天の裁可を必要としていたため、幕府及び北朝側の公家は北朝の再開に取り組むこととなった。治天・天皇・皇太子の奪還は困難と見られたため、出家していた弥仁親王(光厳の子)を後光厳天皇とし、京都に残る天皇家の中で最高位者だった広義門院(西園寺寧子、後伏見の女御・光厳の生母)を治天とすることで対応した。女性で、しかも天皇家の出自でない者が治天となるのは前代未聞の事態だったが、これにより北朝は存続することができた。どのような形であれ、治天という存在が政治上、必要不可欠だったのである。

最後の治天と呼べるのは、後光厳の子の後円融上皇である。後円融は1393年(明徳4年)に没した。その後、院政を行った上皇はいるが、天皇家の家督者としての実権を有していたとは言えず、治天と呼ぶにはふさわしくないと考えられている。例えば、後円融の子後小松天皇は、1392年(元中9年/明徳3年)に南北朝合一を実現して後醍醐以来の唯一の天皇となり、皇子称光天皇に譲位して院政を行い、1428年(正長元年)に称光が没して皇統が絶えると、伏見宮家から後花園天皇を立てて院政を続けた。これらは、南北朝合一の約束であった両統迭立を死文化し、持明院統による皇位継承を既成事実化するための将軍足利義満の意向であった。なお、後円融の死後、足利義満が事実上の治天となっており、子の義嗣を天皇位に就けようと画策していたとする説もある。また、義満死後に生じた後花園天皇の擁立は、後小松上皇による治天としての行為であるとも考えられる。

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2009年04月26日 11:25に投稿されたエントリーのページです。

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